どうでもいい話
自由の定義

ここ最近、尾崎豊をヘビロテしている。
中学・高校時代、尾崎豊が出てきたときは、本当に興奮したのを覚えている。
歌詞に影響されて、まるで“そのままごと版”のようなことをしていた記憶もある。
社会なんて、大人なんて、学校なんて――
今聞いても「いいなあ」と思う。
「僕が僕であるために…」
「正しいことは何なのか…」
仕事で判断に迷ったとき、不意に頭に流れてくる。
尾崎は、今でも僕の中で“羅針盤”のような存在だ。
以前、玲子さんに聞かれた。
「尾崎って“自由”ってイメージがあるけど、あなたにとって“自由”ってどういう意味なの?」と。
僕の中での「自由」とは、
**「責任を覚悟した上での行動範囲」**だと思っている。
「自由だ〜」と叫びながら、
実は誰かに所属していたり、守られていたり。
それは自由じゃなくて、「甘え」や「わがまま」に近い。
守られた環境の中で、「自由がない」と文句を言っても、そりゃ当然だろう?
ほんとうの「自由」は、
自分自身で責任を取り、リスクも飲み込んで行動できること。
野生の鳥のように、自分で食べ物を探し、住処を探し、
雨の日には木の下で休み、常に狙われていることを前提に生きる。
それが本来の「自由」なのかもしれない。
でも、この社会において、
そんな「自由」は正直ほとんど存在しない。
だからこそ、尾崎のような、
感性が鋭く、本質を見抜く人間は、
あまりに早くこの世からいなくなってしまったのかもしれない。
久しぶりに、思い出してみた。