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偏微分で、仕事を眺める

今日は一日、仕事をしているようで、していないような日でした。
東京に来て、事務所の空気を感じ、照明の電源を触ってみたり、ふと昔の授業や研究室の記憶がよみがえったり。
オイラーの方程式だの、ナビエ–ストークス方程式だの、EHLだの。
今の仕事には何の役にも立たない名前ばかりだけど、不思議といろいろと思い出しました。
学生の頃は、微分も積分も、偏微分も、テストとどう関係あるかだけが全てだったような気がする。
解けるか、点になるか。
その勝負に負けそうになると吐きそうになり、少しでも見通しが立つと、ほっとしていた。
面白いかどうかを考える余地なんて、最初からなかったなあと。
でも今日の感じはちょっと違った。
偏微分という言葉を思い出して、ふと「これ、今の仕事と同じやな」と思った。
偏微分は、他を固定して、ひとつだけを見る道具。
時間を固定して、場所を見る。
場所を固定して、時間を見る。
条件をいじらず、変数を一つだけ動かしてみる。
これ、毎日の判断そのものやんと。
人の数はそのままで、このまま時間だけ進めたら、どうなるか。
今日という瞬間を固定して、拠点ごとに眺めたら、どこに一番圧がかかっているか。
全部を一気に変えるのではなく、ひとつだけ動かしたら、何が起きるか。
数式にしなくても、なんとなくもうそれをやっている。
積分も同じだ。積分は、足し算だ。
小さな判断や、何もしなかった日や、無理を出さなかった時間を、全部足した結果が、いまの会社の姿になっている。
派手なプラスは見えなくても、マイナスを出さなかった日は、ちゃんと積み上がっている。
散歩をしているときも、同じことを感じる。
下り坂を降り、平坦を歩き、上り坂を登る。
急な坂で帰るか、なだらかな道を遠回りするかは、その日の気分。
でも、家に帰り着けば、結局プラスマイナスはゼロに戻る。
位置エネルギーの話だけど、人生も仕事も、だいたい同じ感じ。
学生の頃、暗くて苦手だった自動制御の授業や、ラプラス変換の黒板を思い出すと、今でも少し胃が重くなる。
でも一方で、町工場の兄ちゃんがショックアブソーバーをいじっている車雑誌のページは、なぜかワクワクして読んでいた。
似ているけど、対極にある世界。
今なら分かる。どちらも「安定させる」話をしている。
ただ、数式で世界を静かにするか、鉄と油で世界と付き合うかの違いだった。
偏微分は、数式ではなく視点だ。
いま、何を固定して、何を見るのか。
どこが一番しんどくて、どこが踏ん張っているのか。
今日は、派手な成果もない1日だけど、世界を少し静かに眺められたような気がする。
そんな日があっても、会社はちゃんと回っている。
それでいいわと。
たぶん、こうやって眺めること自体が、次の一手の準備なんだろうなと思う。